アンドロイドは美容院で髪を切るか?
世の中で最も緊張する場所、それが美容院だ。
白くて洒落た店内、キラキラした若い美容師さん、避けて通れない世間話…
そのすべてに緊張する。
私のような内向的な人間にとっては、髪を切りに行くことは試練といっていい。
ただ、今日はさすがに髪が伸びすぎてしまったので美容院に行かざるをえなかった。
前髪が「HORN AGAIN」のジャケットのそれであった。
暑くなる季節を前に、重い腰を上げて、私は美容院へ向かったのである。
美容院の前に到着する。
胸の前で静かに十字を切る。
今日も、無事髪を切り終えて店から出てこられますように。
中へ入る。
髪を切っていた美容師2人と、床を掃除していた美容師が一斉にこちらを見て、「こんにちは~」と言ってくる。
私はどこを見ればいい?
目のやり場に困る。
とりあえず、床に向かって、娘が彼氏を連れてきたときの父親のようなあいまいな会釈をする。
父親になるってこういうことか。
世の中のお父さんはすごい。
1人の女性がこちらへ来る。
さわやかな笑顔を向けられる。
そう、美容院は彼女らにとってホームであり、私にとってはアウェーなのである。
すでに向こうにアドバンテージがあるのだ。
負けるものか。
私は泣きたくなる気持ちをおさえ、力の限り声を振り絞った。
「予約した○○です…」
思いのほか声が小さくなってしまった。
たぶん、美容師さんにはマインクラフトの住人が発する声のように聞こえただろう。
それでも、優しく席に通してくれた。
席に座る。
イスがくるっと回転する。
ここだけが楽しい。
満足した。
3000円を払います。
出口はどこでしたか。
え、まだ?
髪を切る…?
そうだった。危うく忘れるところだった。
私は髪を切りに美容院に来たのである。
そんなくだらないやり取りが実際にできればどんなに気持ちが楽だろう。
現実はまだ「予約した○○です」以外にひとことも発していない。
地面から伸びた無数の糸が体中を引っ張っているかのような極度の緊張状態にある。
逆マリオネットとでも呼ぼう。
私が笑い方を忘れていると、席に雑誌が置かれた。
「POPEYE」
私が最も読まない類の雑誌、ポパイである。
おしゃれな男たちが登場する雑誌だ。
20代男性ということで、おしゃれなものに興味があると思って置いてくれたのだろう。
正直、楽しみ方がわからない。
「トリコ」とかでいい。
あれくらい勢いよく読めたほうが気持ちが楽だし、なにより私のグルメ細胞も湧き上がる。
しかし、店内を見回してみても「トリコ」は置いてないようだった。
私は、きっと美容院でしか読むことのないであろう「POPEYE」を読むことにした。
カットが始まった。
これから暑くなるので、短めをお願いした。
切り始めて1分ほどたったとき、ついにあのイベントが始まった。
「お仕事は今日はお休みですか?」
会話だ。
大層に書いてしまったが、生きていれば会話が発生するのは当然であり、美容院で会話が始まってもおかしいことはない。
ただ、美容院での会話は相手のことを全く知らない以上、上澄みの上澄み、表面張力部分での会話にならざるをえず、どうしても気まずくなってしまう。
美容師さんは私のことなど全く興味もないのに会話を振ってくれて、そのやさしさが今はつらい。
その気がないのに、優しくしてくる男に翻弄される乙女の気持ちになった。
さっきから父親の気持ちになったり乙女の気持ちになったり、私のホルモンバランスはもうぐちゃぐちゃである。
体調を崩しそうだ。
話を戻そう。
私は、美容師さんに「お仕事は今日はお休みですか?」と聞かれた。
これは参った。
私は仕事をしていない。
毎日がお休みである。
だが、そんなことを言えば場が凍りつくことは見えている。
「ま、まあそんなところです」
と適当に言っておいた。
「そうなんですね!お仕事は何をされているんですか?」
そうきちゃった!
今日休みって言っちゃったから、そりゃ仕事してなきゃおかしいだろう。
「POPEYE」なんて読んでる場合じゃなかった。
誰か今すぐ私の席に13歳のハローワークを置いてくれ。
困った。
「実はアンドロイドでした!」と言うか?
ウィーンガシャン!ウィーンガシャン!
と叫びながらカクカクと店を出るしかないのか。
だめだ。
アンドロイドがひとりで髪を切りにきたとなれば、それは大問題だ。
捕まって研究対象にされてしまうだろう。
アンドロイド作戦は使えない。
仕方なく私は「じ、事務作業してます…」と言った。
なんだそれ。
つっこまれたらおしまいだ。
全身から花火職人のような汗を流しながら美容師さんからの言葉を待つ。
「そうなんですね~!」
よかった…。乗り切った…。
もうなんでも良い。
今なら坊主頭にしてくださいって本心から言える。
心の中の間抜けすぎる葛藤とは裏腹に、髪の毛はさっぱりとしていた。
「シャンプーしますね」
シャンプー台へ案内される。
この時間は心地よい。
顔にティッシュがかけられるから妙な気まずさもなく、瞑想に集中できる。
「かゆいところはありませんか?」
強いて言えば鼻の頭がかゆい。
しかしそんなボケをしても、この状況では絶対にウケない。
さらっと洗い流されてしまうだろう。
歯がゆい。
そう、これがシャンプーをされているときの本当のかゆみである。
髪を切ってもらうだけなのに、こんなに様々なことを考えなければならないこの状況の歯がゆさ、それが冷静になれるシャンプーの時間にやってくるのだ。
「(かゆいところは)ないです。」
そうやって私たちはまた嘘をつく。
自分の置かれた状況をよくするには声を上げなければならないとわかっていても、行動できない。
自分の気持ちをおさえ、やり過ごそうとする。
美容院はそういう自分の態度を見直す機会をくれる場所なのだ。
シャンプーも終わり、また席に戻り、仕上げが始まる。
完成すると、手鏡を持たせてくれ、「後ろの長さ大丈夫ですか?」と聞いてくれた。
後ろを見るための手鏡の角度がよくわからない。
もたもたしていると、鏡の中で美容師さんと目が合った。
大学の授業前、斜め前の席でメイクをしている見知らぬ女子大生と鏡の中で目が合ってしまって気まずくなったことを思い出した。
美容院は気まずさの学校である。
すべての気まずさをここで学ぶことができる。
お金を払い、お礼を言って店を出る。
そのお礼が
髪を切ってもらったことに対するお礼なのか、
イスを回転させて楽しませてくれたことに対するお礼なのか、
自分の態度を見つめなおす機会をくれたことに対するお礼なのか、
気まずさを学ばせてくれたことに対するお礼なのか、
あるいはそのすべてに対するお礼なのか。
私にもわからなかったが、素直な「ありがとうございました。」が出た。
外に出ると、さっきまで降っていた雨は止んでいた。
髪も気持ちも軽くなった私は、足取りも軽く、帰路についた。
ウィーンガシャン!ウィーンガシャン!